認知のゆがみの恐ろしさ「「小児性愛」という病――それは、愛ではない」

「50歳が14歳と同意性交で捕まるのはおかしい」

素面で言ってるのか????っていう台詞すぎてTwitterの釣りか何かだと思ったら、まじで公の人間の発言だったんですね。

産経新聞:産経ニュース
立民、性交同意年齢めぐる「50歳が14歳と」発言削除
立民、性交同意年齢めぐる「50歳が14歳と」発言削除立憲民主党の性犯罪刑法改正のワーキングチーム(WT)は7日、中学生を性被害から守るための性交同意年齢などに関する13回の議論をまとめた中間報告を作成した。「5…

本多平直衆院議員は「撤回した」し「発言を削除」で済ませたいみたいですけど、そんなもんで人の心にある「主張」が消えるわけもなく。

いまなおSNS上で議論が続くこの出来事を追いながら、しみじみと一か月前に読んだ本を思い出しました。

「小児性愛」という病――それは、愛ではない です。

私は、150名を超える子どもへの性加害者らと関わってきて、彼らも私達と変わらない、同じ“人間”だと考えるに至りました。決して性欲が抑えられないモンスターではありません。

子どもへの性被害、つまり小児性愛障害は、社会のなかで学習された行動です。大げさかもしれませんが、いまの日本社会が「ペドフィリア」を生み出し続けているといっても過言ではありません。

Amazonより

<<ご注意>>
この本はタイトルこそ小児性「愛」と書いていますが、サブタイトルの通り「それは愛ではない」と本文では完全否定しています。
全体を通して読んでも、小児性愛者、ペドフィリアを擁護するものとは感じませんでした。

しかしながら、

加害者の更生や社会復帰の必要性について重点的に書かれていること、
ペドフィリアを「病気」として扱っている点

などから、実際に被害に遭われた方には、加害者擁護に感じられるやもしれません

それゆえ、この本と、その感想となるこの先の記事が「二次被害」となる危険性は十分ありますので、ここまでで嫌な予感を覚えた方はブラウザバックをお願いします

目次

「小児性愛」という病――それは、愛ではない 

ペドフィリアであることは、本人にとって実害がない。そのため、社会的な制裁や実刑が下るという「実害」が伴って初めて、治療しよう、対策しようという気持ちになる。しかし、それは即ち、その時はすでに被害者が出ている

上記の内容は、この本を読み始めてまず最初に驚くと共に、めちゃくちゃ納得がいってしまった箇所の要約であり、議員の発言、撤回の流れから真っ先に思い出した部分でもあります。

自分に実害がないので、他方の実害について本気で考えない。自分の主張したい権利だけが最優先になり、そのために蔑ろにされる別の権利について考えが及ばない。

こういう思考は何で培われるのか?環境か?社会か?遺伝子か?

また、ペドフィリア側のあらゆる主張はなぜ現代の先進国において受け入れられないのか?

筆者はこれらについて多くの事例を上げながら本書の中で説明しています。

私自身もSNS上で似たような意見や事例を見たことがあり、そのたびに「その主張は納得できない」と思いつつも上手く言語化できなかった部分が、この本を読んでかなりクリアになりました。

最初に注意書きで書いた通り、被害者視点よりも、加害者側への対策や思考回路に注目している内容の為、誰しもにおすすめできるものでもありませんが、「性交同意年齢引き上げ」議論が熱い今こそ、読んでおいても損はない一冊だと思います。

この先は、特に自分なりにもやもやしていて、けれど割とよく目にする主張に関して、この本を読んだことでクリアになった個所をいくつかピックアップしています。

ペドフィリアは性的マイノリティではない

ペドフィリアの議論で必ず出てくるのが以下のような主張。

男を好きな男が男と性交する、女を好きな女が女と性交する、というのが認められる一方で、なぜ子供が好きで子供と性交するというのだけが非難され認められないのか? 
子供が好きで性交するというのもLGBTQAと同じ性的マイノリティーの1つと考える

この主張は海外でもよくあります。

ズーフィリアやネクロフィリアのほか、特殊性癖も性的マイノリティとして認めろ、というのも見たことがあります。

これに対して本書では以下のようにはっきりと区分けを提示しています。

「指向(どの性別の人間を恋愛、性愛の対象とするか。恋愛、性愛の対象がない場合も含む」と「嗜好(何に対して性的に興奮するか)」の区別がついておらず同性愛や両性愛も性的欲求の問題だと誤解しているのだと思われます。子供と性行為をしたいというのは、いうまでもなく「嗜好」の問題です。

本文より抜粋

性愛を含む関係というのはそもそも互いに対等なうえで「指向」が一致していなければなりません

「子供」が相手の場合、「大人」はどんな詭弁を使っても「対等な関係」は築けません。力関係に大きな差がある上で築かれる関係が、対等になるなどあり得ないからです。

今回の議員の発言で「合意があれば」ということを言っていたようですが、「対等でない関係」の中に生まれる「合意」にどれほどの効力があるというのでしょう。

「対等ではない関係」の中で、心身の被害を受けるのは必ず弱い側です。

社会的責任も問われないような年齢の子供に、大人とのセックスによって生まれるあらゆる可能性(妊娠、病気)の全てを「合意があったから」の一言で自己責任にするのか。

明らかに片方が大きなリスクを負う関係が、性的マイノリティになるはずがない。

少なくとも現在の世論はそうなっていますし、私も賛成です。

どんな理屈を振り回そうと「ペドフィリア」は病気である

現在の米国精神医学会の診断マニュアルでは「ペドフィリア」はれっきとした「病気」と定義づけられています。

しかし「病気」というと大きく分けて2つの反応が予想されます。

「子供との純愛も存在するのに、何も知らない奴が、全部をまとめて病気とするなんておかしい」
「病気だからやっちゃっても仕方ないよね」

病気というと、確かに「本人にはどうしようもないものだ」というニュアンスがあります。

けれど、この場合の「病気」というのは「治療すべきもの」という意味です。
そもそも「病気」を免罪符にして子供を傷つけることを正当化すること、それ自体が認知のゆがみだという自覚が、まっとうな大人には必要です。

また「愛があるから病気じゃないよ」というのもおかしな話です。

愛があるのであればそれこそ、自分がやりたかろうが、(万が一にも)子供の側からせがまれようが「子供の心身を傷つける可能性のある早期性交」を控えるのが普通でしょう。

こういった「相手を想う気持ち」が歪んでいることすら気づけないのが、一番恐ろしいところかもしれません。

日本の極端な男尊女卑社会がペドフィリアを増やす一因になっている

この本の筆者は痴漢についてもまとめており、そちらに関しても現在の日本の深刻なジェンダーギャップが一因にあると主張していました。

正直、私は最初こそ「ちょっとそれはなんでもかんでも繋げ過ぎでは……」と思ったりもしたのですが、今回の議員の発言を紐解いてみると、納得できる点が多かったです。

日本は今や世界でもトップを駆け抜ける男尊女卑社会です。言っていて悲しくなりますけど。

男尊女卑社会には「男の性欲は誰かが受け止めるべき」「男には女が当てがわれて当然」という考えが社会全体に沁みついていて、少女であろうと「女」であればケア要因のように扱われます。

例えば、日本のドラマで「母親が亡くなったあとに、幼い娘が父親を世話する」という感動話がよくありますが、まさにその性質を可視化しているといえるでしょう。そういうものが一般的に受け入れられる社会であることがそもそもおかしいんですよね……(私も昔から違和感は感じていましたが、はっきりと、それが歪な関係であるとは、最近まで気づきませんでした)

「子供」は「子供」であり、「子供の権利」がある。

女の子だから母親の代わりをして父親を支えるとか、そんなことをする必要は本来ないのです。ましてや「恋人」代わりのようにするのは以ての外です。

しかし、一部の成人男性はその事実から目をそらして、自分に都合のいい時だけ「子供」を「大人」扱いしようとします。

今回の本多平直衆院議員の「合意があれば」の発言も、そもそも選挙権もなければ、一人では中絶をする権利もない「子供」の14歳を、性交に関してのみ「子供」と見なさない真意が煤けており、まさしくこの考え方に当てはまります。

そのほか、男が上位であるのが当然の社会にいながら「女性に受け入れられたことがない」「女性に冷たくされたことがある」といった経験のために、女性よりもさらにか弱い存在である子供へ意識が向くケースもあるそうです。

子供は身体が小さく、骨格や筋肉も発達していない、経済力もなければ、知識も経験もない……物理的かつ社会的に子供が大人より優位に立てるものは、ほとんどありません。
<中略>

日本は男尊女卑社会だと言われていますが、女性に拒絶された経験がある男性はそれを信じることができません。男性である自分は本当なら社会で優位に入るべき存在なのに、それが全く叶っていないこんなの理不尽だ 。
<中略>

彼らは成人女性が「恐い」のです。自分を拒絶し、存在価値を認めてもらえない、つまり自分の立場を脅かす存在である女性たちより、自分の方が優位に立っているとは到底思えないのです。彼らに「日本社会は男性が優位に、女性が劣位に置かれている社会ですよ」と話しても、腑に落ちない顔をするばかりで全く響きません。自分たちが認識している社会とは全く異なるからです

本文より

こうした思考回路から、成人女性ではなく、絶対に自分を脅かさない子供に受容や寛容を求めていく、という……

も~~~~ね~~~~~~

勘弁してくれよな!

「かわいい」ということを過度に求める社会

KAWAIIの国、日本。

この「かわいい」という言葉自体に悪意はありません。

けれど「かわいい」にはどうしても「小さい」「か弱い」「無垢」のような意味合いも含まれます。

それが過度に増幅し、支配欲や征服欲が混ざり合った結果、ペドフィリアの認知のゆがみが酷くなることもあると本書には書かれています。

子供をかわいいと思う気持ちは誰しもの中にあります。何がどうかわいいのかは、一人一人感じ方が異なるでしょう。しかし子供に性加害する者たちが熱心に言い募る”かわいい”には共通した意味合いがあるように感じます。それはとりもなおさず、上野氏が言うところの「相手を絶対に脅かさないと言う保証」です

本文より

これは男尊女卑の思考パターンとも似通っています。

しかしこれに関しては、男女関係なく、自分も含めて、何かしらの加害者になり得ると感じて少しひやりとした箇所でした。

「かわいい」という気持ちから端を発して、心のどこかで誰かを、何かを下に見て「大事にしてあげるよ」と思うことが、自分には絶対になかった、とは言い切れません。

悪意なく「そういうところかわいいねえ」と言ったのが侮辱になることもあるでしょう。

この本は男性の性加害者のことを中心に書いているので「男性は誰しも加害性を持っていることを自覚すべき」と書かれていますが、実際は「人は誰しも加害性を持っていることを自覚すべき」なのだと、読みながらあらためて思い知った個所でもあります。

二次元、三次元問わず、児童ポルノは実害を招く「トリガー」になり得る

ある日Twitter上に、少年型ラブドールを購入、性的なことを含めて使用したレポ漫画が投稿されました。

「匂わせ程度とはいえ性的に使用したことが分かる描写」「実際の子供に手を出さないための抑止にもなる」などと言った記述などがあり一気に拡散、大炎上。

少し前の話ですが、かなり炎上したので、まだ記憶に新しい人もいるのではないでしょうか。

最終的に投稿者は謝罪のうえ、投稿を削除。

しかし炎上はなかなか収まらず、投稿者を擁護する側と非難する側とで場外乱闘のような状態になりました。

私も実際、以下のような擁護の声を見ました。

「ドールを使うのは現実の子供に手を出さないようにという抑止力になる」

「二次元やドールのショタとリアルのショタは別。これを理解しないで一緒にしている奴らの方が現実と空想の区別ができていない」

二次元に関わると必ず出てくる意見主張であると思います。

実際はどうなのか。

少なくとも、実際のペドフィリアに話を聞き続けている筆者の意見としては、二次元のロリショタ、疑似未成年のAVなどは、少しずつ抑止の判断力を衰えさえせ、実害を起こす「トリガー」になり得るといいます。

私も、このラブドールレポの炎上と、ここで詳しくは書きませんが、投稿者の呟きの過去から炎上までの変化を見る限り、その可能性は非常に高いと思いました。

投稿者は二次元の少年の絵を描く絵師であり、いわゆる二次ショタコンのコミュニティとの交流をするうち、やがては三次元のラブドールへと至り、コミュニティに向けた特殊なレポ漫画を、オープンなアカウントで発信、というのが大まかな経緯です。

漫画内で「ドールは実際の子供に手を出さないための抑止力になる」と言いながらも、二次元の絵で発散されていた嗜好が、結局は三次元のドールへと、興味がエスカレートしています。

この矛盾を矛盾だと感じられない時点で、もはや「分別がある」という主張は通らないのではないかと思います。

……正直、私も創作をするオタクの一人なので、Twitterという特殊なコミュニティの中で、はっちゃけてしまう人の気持ちもよくわかります。

投稿者や近しいフォロワーは、もしかしたら、確かにリアルではない少年にしか興味がない人たちだったかもしれません。

しかし、誰もが呟きを見られるTwitter上にはいろいろな人がいます。

実際にレポを読んでドールを購入し、リアルの少年への興味が湧いてしまう人も出てくる可能性があるのです。そして被害にあうのは、現実の子供です。

そうなれば「そんなつもりはなかった」としても、二次元や三次元は十分に、犯罪の「トリガー」になっていることになります。

また、二次元だから、ドールだからと言って「ショタコン」「ロリコン」は問題ないとして声高に叫ぶのは「ペドフィリアは隠さなくてもいい」という雰囲気を作る一助にもなるでしょう。

「嗜好は権利」というのは当然ですが、それは「子供の権利」を侵害する危険性を孕んでいないか。

自分の過去を自省するとともに、今後の投稿には責任を持たなければと感じました。。

ペドフィリアの更生、社会復帰への手助けは、二次被害を防ぐためにも必要である

筆者は後半に進むにつれて、加害者の更生方法について詳しく述べています。

これは、最初にも注意書きで述べた通り、被害者の気持ちを考えずに、加害者の社会復帰ばかりを後押ししていると見る人もいるかもしれません。

一度子供に手を出した人間は、二度と社会に出て来ないでほしいと思う気持ちは当然です。 

けれど、今の法律では、彼らが死刑になったり、永遠に刑務所から出てこないと言う事はほとんどありえません。

そうなると、現実的な対処として可能なのは「病気を治す」ということになります。

実刑を食らうことで、ペドフィリアはようやく自分の「問題」に向き合う機会を得ます。けれど、大抵の場合、発覚したあとは家族からも世間からも見放され、社会復帰も困難になるケースが多いそうです。(なぜか簡単に教員に返り咲いたりする者もいるみたいですが)

そうすると、追い詰められた思考は「刑務所に戻りたい」「もうどうにでもなれ」という方向に。そして結果的に第二、第三の被害者が出てしまう。

いや、そんならやっぱりもう出てこないでくれよ……って、正直なところ、本気で思いますけどね…………。

被害を未然に防ぐための法整備や刑罰について、日本はまだまだ未熟ですし、被害者を守る体制も整っていません。

加害者の更生プログラムと被害者保護、そもそもの子供の権利、すべてをもっと充実する必要があるのだと思います。

だからこそ、それを変えようという話し合いの中で、14歳と合意で性行為する権利!みたいなことを大人が言ってる場合じゃないんですよ。マジで。

終わりに

この本を読み、そして昨今の議論や政治家の不祥事を考えれば考えるほど、やはり小児性愛、ペドフィリアというものは、先進国社会においては決して受け入れられない致命的な考え方だと言う意識を、我々大人がしっかり持たなければならないと思いました。

国を支える政治家が公で「子供の権利」よりも「自分の権利」を優先し発言するということ自体の恥ずかしさを、心の底から思い知るような空気や社会を、マジで作っていかなきゃですね……。

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この記事を書いた人

フィンランドに住みたい研究者かつフリーのWebデザイナーかつコーダー。
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