こんにちは、サトウ(@mukashime)です。
「カンザス州。子供のいない夫婦がある日偶然子供を拾い、自分たちの実子として育てていたが、その子は成長するにつれ、強大な力を見せるようになり…」というシナリオの映画「ブライトバーン/恐怖の拡散者」を見る前に、
「カンザス州。子供のいない夫婦がある日偶然子供を拾い、自分たちの実子として育てていたが、その子は成長するにつれ、強大な力を見せるようになり…」というシナリオのコミック「スーパーマン・フォー・オールシーズン」を読み直してます。
「ブライトバーン」はいわゆる、「もしもスーパーマンが悪だったら?」というパロディ。
本家アメコミにも、善悪が逆転した世界の「悪のスーパーマン」でウルトラマンというキャラが存在するので、奇抜なアイディアではないのでしょうが、それをはっきり映像化したというのは真新しいのかも。
不幸を跳び寄せる子供ネタならオーメンもありますが、スーパーマンほどアクティブな能力を持つわけじゃないですしね。
それでなぜ「ブライトバーン」を見る前に、フォーオールシーズンを読んでいるかというと、この本は「スーパーマンをスーパーマンたらしめる要素」をはっきりと示してくれているから。
ブライトバーンの「悪スーパーマン」との描かれ方の違いや、彼が悪の道を進むに至る経緯なんかを対比してみたいと思ったからです。
Twitterのフォロワーさんなら知ってると思うのですが、私はスーパーマン大好きです。
生まれながらにスーパーパワーを持ち、カンザスで心優しい両親に育てられたクラーク・ケント(スーパーマン)は、長じると故郷を離れ、その特殊能力を生かして、誰よりも強いヒーローになります。
上記の根本的な設定を踏まえて、彼に関して幾度となく語られるテーマがあります。
スーパーマンがどんなヒーローよりも強く、気高く、心優しいのは、彼が誰も持たないスーパーパワーを持っているからなのか?
答えはNO。いや、半分はYESかも。
彼ほどの力を持っていれば、(発想が子供じみてはいますが)世界の支配者になることもできます。
ヒーローは、ある意味ボランティア。金も地位も保証されないのに、なぜ彼は自分の時間を費やして、世界中の人を助けるのか?
それは彼がスーパーパワーを持っているからです。でもそれだけじゃない。
フォーオールシーズンは、春夏秋冬を通して、クラーク・ケントという1人の青年の成長を見つめ、その答えを語ってくれる作品です。
芽生の季節であり、始まりの春に、クラークの故郷は大きな竜巻に襲われます。
クラークは、その日初めて、その力を使って一人の男性を助けますが、街は多大なダメージを負いました。
その有り様をみて、彼は言います。
「もっと何かできたかも…」
人を、街を、世界を守れる力があっても、そのために使いたいと願う意志は、個人の善性からしか生まれないものです。
それはもちろん、クラーク個人の持つ資質が大きいのでしょうが、彼を育んだ両親、親友たち、田舎のおおらかな人々の存在が大きく関わったことが、フォーオールシーズンを読むとよくわかります。
スーパーマンの、力が強く、あらゆる能力を兼ねそろえた「鋼鉄の男」という表面的な印象を、いい意味で覆し、再構築してくれる良作です。
ブライトバーンはどう考えてもスーパーマンのパロディ、とはいえ主役は「クラーク」ではなく、別の少年の話です。
同じ境遇から、何が彼とスーパーマンとを違えたのか。
「ブライトバーン」を見たら、感想を踏まえてまた記事にしたいですね。
ていうか「ブライトバーン」の返却期限、明後日なので、コミック読んでる暇あんのかはよ観ろって話。
フォーオールシーズン読みたいだけだろって話。
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