日本にいた神や妖怪は何故消えたのか「八雲百怪」

2巻から9年近く沈黙していた「八雲百怪」の3巻、4巻が出ていたとさっき知って仰け反っています。

遠き妖精の国から、極東の妖怪の国へ。消えゆく美しい物を追い求めた男・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の姿を描いた、『北神伝綺』、『木島日記』に続く「民俗学ロマン」シリーズ最新作!!

Amazonより

『怪談』の著者として有名な小泉八雲、ラフカディオ・ハーンが遭遇する怪異を描く「八雲百怪」。

実在した人物を登場させているものの、史実に沿った描写はほとんどなく、でもどこかリアルで「こんなこともあったかもしれない」と思わせてくれる、いわばIF歴史モノに近い漫画です。

「八雲百怪」とタイトルにありますが、実は主役は甲賀三郎という別の人物。

彼は政府高官の命の元、日本のあらゆる場所の「門」を閉じる役目を負っています。

「門」とは「人の住むこの世」と「神や妖怪の住むかくり世」を繋ぐもの。

かつての日本には「門」があらゆる場所にあり、人とあやかしは共存関係にあった。

例えば山深い田舎では長く山の神や、その地に根付く神を信奉していた。村人は稀に神に生贄を与えては、村そのものの繁栄や安全を約束されていた。

神や超人と、人は共に生きる。それは日本に長く根付いていた文化だった。

しかし明治に入り近代化が進むと、日本政府にとって神々は邪魔な存在になってきた。

山を切り崩しダムを造ったり、街を発展させる為に様々な建築物を建てるにあたり、神の怒りを恐れ、古いしきたりを守っていては近代化が進まない。

だから甲賀三郎は危険な「門」を選別し、塞ぎ、神や妖怪を消すという仕事をしている。

「古いしきたりは新しい日本をつまづかせる」からと。

欧米列強に並び立つには、いつまでも神や妖怪といったものに頼ったり、翻弄されてはいけない。そんな不安定な要素は「排除」せねばならない。

作中、甲賀三郎から神や妖怪に対する憎しみや哀悼はほとんど感じられません。彼は淡々と仕事をこなしていきます。

一巻の一話目では、疫病退散の為、ある時期に村人や旅人で牛頭人身の生贄を作り、神にささげる風習のある村が出てきます。生贄文化というものの衰退について、面白い解釈で描かれています。

二話目では片足と片目がつぶされ、脳が食われている男の死体から事件が始まる。犯人はかつての「山の神」であることが判明。山に産業開発の手が伸びたために村人の手で都会へ捨てられ「かくり世」にも帰れなくなった山の神は、最終的にどこに行きつくのか。

こういう系統の話が我々の良く知る民話や怪談話、妖怪変化に神話などあらゆる要素を混ぜて描かれているのが「八雲百怪」という漫画です。

そしてこの漫画自体はフィクションですが、色々と含蓄があるのを感じます。

物語の中で排除される神々の姿は、ずっと日本にいたのに、日本の中で「いなかったことにされた」人々を彷彿とさせます。

正しい民俗学を知る人にはとんでも本に近い印象があるかもしれませんが、そうでもない人にはひとつ、そういう世界に対する興味の「門」として読んでみるのもいいかもしれません。

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この記事を書いた人

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