ネトフリックスで「シーラとプリンセス戦士」というアニメが始まった時
真っ先に思い出したのはトリイ・ヘイデン著「ヴィーナスという子」でした。
常に無反応で、知的障害のある姉にしかなつかない七歳の少女。ある恐ろしい事件によってあきらかになったのは、悲惨な虐待の実態だった…。福祉の新たな問題に挑むノンフィクション。
Amazonより
※ここから先は本の感想というより、作中で取り上げられた「人種問題」についてを中心に書いています。
7歳のヴィーナスは完全に無言、無反応を貫く少女。反応を見せるのは何かが、誰かが彼女を怒らせたか怯えさせた瞬間だけ。その時だけ、彼女はケダモノのように叫び、相手を追い回して暴れまわる。
トリイはそんな彼女からもっと人間的な、ほかの反応を引き出そうと努力します。
その試行錯誤の中で出てきたのが「シーラ・プリンセス・オブ・パワー」の漫画でした。
左が昔のシーラ。右がネトフリックスで現代向けにアップデートされた、ネトフリックスアニメ版シーラ。
ヴィーナスという子が書かれた時期からして、ヴィーナスが親しんだのは左のシーラと思われます。
最初はトリイ自身、シーラに教材としての力を期待していたわけではありません。
「シーラ」はそもそも、別の男性キャラクター、ヒーマンが男の子の間でブレイクしたのに味をしめた 企業側が、今度は女の子をターゲットに儲けようと作り出したのがありありとわかる設定で生まれました。
シーラはヒーマンの双子の妹であり、ヒーマンと同じく魔法の剣で力を手にし、変身する。
違うのは男か女か程度で、何もかもがヒーマンの焼き増し状態で発表されたシーラに、トリイは魅力を感じなかったようです。
ヒーマンは確かに男の子たちの間で人気が出て、トリイ自身も彼らの会話についていくためにヒーマンを知る必要があったと言います。ですが、シーラはというと、当時の女の子たちは「マイリトルポニー」などに夢中であまり振り向いてもらえず。
そんな要素も重なった結果、なかなかトリイの世界には浸透しなかったシーラ。
ですが、現実世界に対して完全に無反応だったヴィーナスに、興奮と積極性を芽生えさせたのがこのフィクション世界のパワーのプリンセスだったのです。
トリイとヴィーナスはまず学校の休憩時間に、軽いスキンシップから始めました。
膝に抱きあげて、本を読んであげる。普通の子供なら幼少期に経験しているだろう些細な触れ合いですが、ヴィーナスには欠けていたモノ。
やがて少しずつ、本当に少しずつ、ヴィーナスは反応を見せ始め、自分で本を選んだりするようになります。
そしてある日持ってきたのが、トリイ自身もどこに置いたか忘れていた「シーラ・プリンセス・オブ・パワー」のコミック。
「シーラ」はすごい速度でヴィーナスを目覚めさせました。それまで繰り返し読み聞かせに使われた絵本の「カエルのがまくん」が可哀そうになるほど。
シーラは無言無反応を貫いていたヴィーナスに笑い声を上げさせ、アニメの中の戦いには息を飲ませ、定規を剣に見立てた「ごっこ遊び」に誘い込みました。
一切喋らなかった彼女から「グレイスカルの名誉の為に!」という決め台詞で大きな声を引き出しました。
この段階で、もう「よかったじゃん。めでたし」
って感じなんですけど、
ここでまさかの問題提起がなされます。
トリイの助手のような立場で働いていたジュリーという女性が、「ヴィーナスにシーラを与えるのは不適切」だと主張したのです。
ジュリーの言い分はこうでした。
・シーラは胸が大きく、豊かなブロンドを持つ白人女性だ。一方、ヴィーナスは黒人であり、どうあがいてもシーラにはなれない。シーラはフィクションのキャラクターで、人種も違う。そのようになれもしない憧れを与えるのは残酷だ。もっとヴィーナスに相応しい、例えば、現実で活躍している黒人女性を与えるべきだ
・そもそもシーラ自体がよくできたアニメとは言えない。教育的ではない。そもそも休み時間とはいえ、学校でアニメを用いるのは不適切だ
1番目の主張に、トリイは驚いたそうです。それを言われるまで、トリイは「シーラ」というコミックやアニメを人種的にどうこうという目で見たことがなかったからでした。
トリイがシーラを採用したのはあくまでヴィーナス自身が興味を示し、自分の意思で「持ってきた」からです。今までどんなものにも無反応だったシーラが、最も強く惹かれたのがシーラであり、トリイはそれを利用したに過ぎない。
シーラが白人で強い女性だからとか、そういう意図でトリイが「与えた」のではなかった。
しかしジュリーは、そうトリイが言い切るのはトリイが白人であってこの事柄に鈍いからで、実際は非常に大きな問題をはらんでいるのだと反論します。
こういわれた時、トリイは自分が人種差別に無頓着だと言われたようで、鼻白んだようです。そもそも黒人には黒人が相応しいというジュリーこそが人種差別ではないかとさえ思ったと言います。
もう一度さっきの画像、特に左を見てみます。
「シーラ」の世界はスターウォーズ同様、いわゆる「人間」の姿をしているものの方が少ない世界でした。だからこそ、人種問題があまり気にならなかったという理由もあるのでしょう。
しかしジュリーにそう言われてから、トリイが「人種」を意識してアニメを見直してみると、確かに、シーラを始め、善玉、正義側、良い人とされるであろう重要キャラは、みな白人だと気づかされます。確かに昔のシーラの画像、右隣の人間たちは白人とみられます。
「シーラ」が発表されたのは1985年。
ヴィーナスがシーラに触れた時期ははっきりしませんが、ここからそれほど遠くない時期だと推測されます。当時は今よりずっと、この問題が軽視されていたのは想像に難くありません。
2番目の主張のほうが、トリイには納得しやすかったでしょう。
そもそも「シーラ」に特別良い感情を持っていなかったトリイも、多少なりとも思っていたはず。話も設定もヒーマンとほとんど変わらない、あからさまでやる気の見えない商法。確かに学校に持ち込んで子供に与えるには「不適切」。そもそも漫画ですし。
しかしヴィーナスは「普通」からかけ離れた環境で育った子供です。
懸命に世話をしてくれるのは知恵遅れの姉だけ。暴力をふるう継父に、生活のだらしない母親、貧困の中にいるたくさんの兄弟。
そんな現実を生きてきたヴィーナスにとって、魔法の剣を持ち、美しく戦うシーラがどれほど輝いて見えたことか。
ヴィーナスがシーラを好いたのは彼女がパワーのプリンセスだからで、そんなシーラこそを必要としたからです。「カエルのがまくん」でもだめだったんだから
個人的にはこの部分「ヴィーナスが一歩前に進む助けになった。ヴィーナス自身が必要とした」ことが最も重要で、シーラが黒人か白人か、教育上適切なものかどうかは二の次だったと私も思います。そして二の次だから重要ではないわけではないとも思っています。
当時、人種的な偏りに問題があったのは、なにも「シーラ」だけではありません。コミック界二大巨頭だったマーベルもDCも、当時からこの問題に大きく踏み込めていたとは思えません。
アイアンマン、スパイダーマン、バットマン、スーパーマンといった「稼ぎ頭」とも言える、トップヒーローたちは揃って白人でした。
それが「問題」として取り上げられ、多くの人の声が届いた結果、目に見える変革が起きてきたのは、割と最近だと感じています。(多分、多様性への取り組み自体はもっと前からなされていたとは思うんですけど)
黒人のスパイダーマン、スーパーマン。アジア系のバットマンなどが登場し、それがただ脇役として存在するのではなく、メインとして、あらゆる人種、媒体に受け入れられる時代へ今は変わってきている最中だと思います。これはとても喜ばしい変化でしょう。
ですが、その変化に伴ってか、SNS上には数十年前にジュリーが主張した「人種的な公平さ」のようなものが目立ってきているように感じます。
例えばネット上でスパイダーマンについて話している海外スレで、今のジュリーの主張を現代で突き詰めたようなコメントを目にしたことがあります。
「黒人の子供が白人スパイダーマンのピーター・パーカーに憧れるのはおかしい。黒人のスパイダーマン、マイルズ・モラレスがいるんだから」
これは人種差別でしょうか?それとも人種的に「適切」な物の考え方でしょうか?
私としては、うーん、人種がどうこうより、人が好きなものを「おかしい」「不適切」と他者が言い切ってしまうのに対して、めちゃくちゃ嫌な感じはするというのが正直なところ。自分が言われたらほっといてくれ、好きなんだからしゃーないやん、っていう反発しか覚えません。
でも「人種がどうこう」と言い切ってしまえるのは、私がアジア人、それも日本人で、白人と黒人の間にあるような長い歴史に無知で、当事者意識に欠けている証拠でもある気がするのです。ジュリーがトリイに言った「その問題に鈍い立場にある」というのは、決して間違いではないし鋭い指摘だと今は痛感します。
子供の頃に「ヴィーナスという子」を読んだときはさらっと流して読んでしまったこの「人種問題」部分。今は何度も読み直してしまいます。
本の中では、結局「シーラ」はヴィーナスに起きたある悲痛な事件をきっかけに、その姿をほとんど消してしまいます。
現実の児童虐待を食い止めることは、やはりフィクションキャラクターには無理だったのです。ごっこ遊びの中で、ヴィーナス自身が「あたし、シーラじゃない」と言い切ってしまうシーンが本当に痛痛しい。
ただ、ヴィーナスを現実の世界に連れ戻し、人との繋がりを取り戻す手助けをしたのはシーラです。
シーラがいなければヴィーナスの行く末はもっと悲惨なものだったでしょう。
それでも「シーラ」はヴィーナスに「不適切」だったのか?子供に勇気と希望を与えるものとして、現実で活躍する黒人女性よりも劣る存在なのか?
トリイとジュリー、どちらの主張が果たして正しいと思ったか、ぜひ本を読んだ人の考えを聞いてみたいですね〜。
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