種の保護というエゴ「絶滅できない動物たち」

こんにちは、サトウ@mukashime)です。

積読消化期間です。今回は「絶滅できない動物たち――自然と科学の間で繰り広げられる大いなるジレンマ」

このタイトルと中身の印象がちょっと微妙に違う気がしたので本家タイトルを確認したら「Resurrection Science: Conservation, De-Extinction and the Precarious Future of Wild Things(復活の科学:野生生物の保護、消滅、不安定な未来)」でした。
こっちの方が内容に合ってると個人的には思います。


「絶滅できない動物」っていうタイトルはインパクトがあるんですが、でもなんか、動物側に問題があるみたいな印象があったので。


著者が提起している疑問は人間が、人間にしか扱えない科学を用いて種に干渉することの是非であり、中心にいるのはいつも人間です。


人間主導でのみ行われる「保全」。


非常に特殊な環境にしか生息しないキハンシヒキガエルを保護した結果、自然の個体は絶滅し、実験室で繁殖した世代しかいなくなった。

彼らを自然に返すことは正しいのか?

彼らが生まれたのは封鎖された実験室であり、もはや自然は彼らにとっての「自然」ではないのに?


先天的に子供の出来難い特徴、潜伏睾丸や精子劣化などを持つことが多いうえに、人間の狩りによって数を減らしたフロリダパンサー。その問題解決のために人間はピューマとの交雑を押し進めた。

結果的にピューマとフロリダパンサーの間には子供が生まれたが、彼らの遺伝子情報は「フロリダパンサー」そのものとは最早変わってしまった。

それは「フロリダパンサー」を保護したということになるのか?

交雑して生まれた種は保護に値するのか?

保護すべきは種か、遺伝子か?


その他にも多くの動物を取り上げ、問いかけはさらに奥深くなり、最終的には、「人間が滅ぼした種の復活」「人間に近しいネアンデルタール人の復活」など、それが正しい行いか、違うのであれば、我々はどこで、何をもって線引きをするのか?という倫理や哲学の分野にも踏み込んでいきます。


絶滅危惧種の保護、というと、なんとなく善のイメージがある人が多いと思います。私も割とそうでした。

でもこの本を読むと、保護とは何か?という基本的な部分からして、とても難しい問題だとわかります。

翻訳に少し癖がありますが、色々な気づきを与え、考えさせてくれる本です。


余談ですが、この本を読んでいた時、偶然テレビ番組で、メダカブームについて特集されていました。


メダカって絶滅危惧種じゃなかったっけ?と思ったんですが、最近はそれこそ保護などが進んで復活の兆しがあるそうですね。


テレビでは、ヒレが長く、七色に光って見える美しいメダカを「作る」ためにその特徴を持ったメダカを「掛け合わせた」と言っていました。

そうして生まれた種には、作った人間が名前を付けていいのだそうです。

ちなみにその新種を生むのに必要な時間は、数十日だったか数か月だったと思います。


それを誇らしげに話す人。美しいメダカを見て喜ぶ人。この本を読みながらだとその姿が、なんだかとても異質に見えたのを覚えてます。

この会場にいる人たちは、同じことを犬や猫にしたという話になったら、どんな顔をするんだろう(実際に行われてますが)。やっぱり綺麗、とか、可愛い、で済むんだろうか。


じゃあ人間の赤ちゃんだったら?


その倫理観の線引きを「何となくダメな気がする」以外に説明できるんだろうか。

私自身、説明できるだろうか。…できない…


そんなことを考えた時、そんじょそこらのホラーより、この夏一番、肌寒さを感じるなどしてしまいました。

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この記事を書いた人

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